教会は全体としてキリストの身体であり、教会を構成する一人々々は、人間の身体を構成する肢体のように、別々のものが一つに結びついて教会としての働きを成しているとパウロは語ります。教会を構成する人は、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由人であろうと、みな一つのバプテスマと杯とによって結び付けられているのです。
対立的な概念を現代的に考えるならば、日本人と外国人、男性と女性、大人と子ども、高齢者と若者あるいは壮年の人という風に捉えてみればいいかもしれません。普通なら一つにはなれないような違いを持った一人一人の人間が、御霊によって一つとなっているのが教会であるとパウロは言っているのです。

 ギリシアの哲学者たちが、身体の部分の働きを例として共同体の構成員の共同体への奉仕を説いたのと同じ発想です。手と足の形と働き、耳と目の形と働き、それぞれ全く違っていながらお互いに欠くべからざる重要性をもっている・・・キリスト者たちはさまざまの関係から一つの教会に属していますが、身体が多くの肢体を持たなければ確かな活動ができないように、キリストによって種々に扱われ、種々な賜物を与えられるのです。各々は自らの賜物を感謝し他の人の賜物を尊重し、自他ともに神がなそうとしておられるままになることを目指す、それがすなわち、私たちにさまざまな能力を与えられる神に栄光を帰することなのです。
 
 『一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。』信頼のある真実な交わりならば、ある部分に起こることは悩みであろうと喜びであろうとすべてに起こることであり、それによって私たちの生活は本当に豊かになるのです。これが真実の交わりのもたらす祝福です。

                               


コリントの信徒への手紙T 12章14〜26節
交わりの祝福
2002年7月21日